龍善寺が考える葬儀とは
浄土真宗・真宗大谷派お東の龍善寺
「葬儀は誰のための行うものですか?それは、残った方々のためなのです。」
仏教では「生死一如(しょうじいちにょ)」といって、生と死は表裏一体で切り離せないものだと教えます。
人はなぜ死ぬのか・・・それはこの世に生まれてきたから。
そして、いつどのようにして死ぬかはすべて人智を超えた「縁(えん)」によります。だとすれば、その時がいつ来てもいいように生きたらいい。それがまさしく仏教の教えです。
しかしそのためにはやはり、「いのち」が尽きた後、私はいったいどうなるのかを確かなことにしておかないといけない。
それを教わる最大のチャンスが葬儀なのではないかと思います。亡くなった日のことを「命日」ともいいますが、それは“私が「いのち」の意味を教わった日”という意味でもあります。
ですから葬儀にかけるお金が「多いから良い」「少ないから悪い」ということではなく、葬儀の場で亡き人の声なき声に耳をすませ、「いのち」についてのメッセージを受け取ることができるかどうかが、より大切なことだといえます。
実は、亡くなった方は「安らかに眠っていない」と浄土真宗では考えています。では眠らずに何をしているのかというと、残った私たちのために絶えずメッセージを発信してくれているのです。
それも含めて考えると、葬儀は亡くなった方のためという以上に、残った私たちのため、今を生きる私たちが「いのち」についての学びを得るために、行なうべき大切なことなのです。